山本寛斎さんとの偶然の出会い
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前回のページで、僕がキルトと40年以上歩み続けてきた理由をお話ししました。
今回は、僕がキルトを履き続けてきた中で起きた、信じられないような「運命の出会い」についてお話ししたいと思います。
舞台は2016年から2017年頃、東京・青山。
あるカフェに立ち寄った時のことです。その日も僕は、いつものように自分の体に合わせて仕立てたキルトを履いていました。
すると、エネルギッシュなオーラを放つ紳士が、ニコニコしながら僕に近づいてきたのです。
日本を代表する世界的ファッションデザイナー、山本寛斎さんでした。
実は、話を終えて近くにいた妻から「今話してた人、寛斎さんだよね?」と言われるまで、僕はまったく気がついていなかったんですがね(笑)。
「お、いいキルト履いてるね。フルチン?」
その紳士は、とても気さくに声をかけてきました。
驚く僕に、さらに飛んできたのがこの言葉です。
「フルチン?」
キルトを知らない人からすればギョッとする質問かもしれませんが、実はこれ、キルトの伝統を深く理解していないとなかなか出てこない言葉なんです。
スコットランドの伝統的な正装(トゥルー・スコッツマン)では、キルトの下には下着を着けないのが正式なマナー。寛斎さんはキルト文化の深部をご存じだったからこそ、あんなフランクな冗談が自然に出たのだと思います。
後になって、世界的なデザイナーから直接そんな言葉を投げかけられていたのだと知り、僕はすっかり舞い上がってしまいました(照)。
寛斎さんとスコットランドの
「果たされなかった夢」
実は、その後に知ったことですが、寛斎さんとスコットランドには、並々ならぬ深い繋がりがありました。
1971年、日本人として初めてロンドンでコレクションを開催し、デヴィッド・ボウイの衣装を手がけるなど世界的な旋風を巻き起こしたこと。
そして晩年の2019年、スコットランドのダンディー市にある「V&Aダンディー(スコットランドのデザイン博物館)」を訪れ、その場所を痛く気に入り、「来年は絶対にここでショーをやるぞ!」と熱く意気込んでいたこと。
寛斎さんがスコットランドの文化や、V&Aダンディーという場所に惹かれていた背景を知り、僕は点と点が繋がるような感覚を覚えました。
男女の枠にとらわれないジェンダーレスな魅力や、タータンに込められた誇り。僕には、キルトという民族衣装が持つエネルギーが、寛斎さんの「BASARAⓘ」の美学と深く共鳴していたように思えてならないのです。
しかし、そのスコットランドでのショーの夢は、2020年に寛斎さんが急逝されたことで、未完のままとなってしまいました。
「大変かと思うけどキルト着続けてよ、
頑張ってね」
青山のカフェで言葉を交わした後、別れ際に寛斎さんが僕にかけてくれた言葉です。
日本で日常的にキルトを着ることの「大変さ」——奇異な目で見られたり、時に誤解されたりすること——を、誰よりも奇抜で前衛的な表現と戦ってきた寛斎さんは、痛いほど分かっていたのだと思います。
それでも「自分を表現することをやめるな」と、力強く背中を押してくれました。
今、僕は池袋のキンカ堂でイメージに合う生地を探し、レザーポンチで太いベルトに穴を開け、ワッペンや金具を組み合わせながら、ミシンと格闘して自分だけのカジュアルキルトを仕立てています。
ハンドメイドで何枚ものプリーツを折り込む作業はすっかり職人のようですが、あの時の寛斎さんの言葉を思い出すと、不思議と力が湧いてくるのです。
彼がスコットランドで叶えられなかった夢の、ほんの小さなカケラ。
一瞬でも、寛斎さんのその情熱に触れられたことは、僕の人生にとってかけがえのない宝物です。
あの日、マクラディ家から託されたスコットランドの文化。
そして、青山で山本寛斎さんから託された「着続けてよ」というエール。
これからも僕は、胸を張ってキルトを履き続け、そして作り続けていこうと思います。
【特別資料】山本寛斎さんへの追悼と、遺されたスコットランドへの想い
※あの日、寛斎さんから頂いたエールの重みを噛み締めるため、そして彼がどれほどスコットランドの文化を愛し、夢を抱いていたかを記録しておくために、この資料を書き添えます。
■ 伝説の始まり:1971年 ロンドンコレクションと「V&A」
スコットランドの「V&Aダンディー」を寛斎さんがこれほどまでに気に入った背景には、彼自身のキャリアが「イギリスでの大成功」から始まったという深いルーツがあります。
1971年5月、山本寛斎さんは日本人デザイナーとして初めて、ロンドンでファッションショー(Kansai in London)を開催しました。
当時の西洋ファッション界にとって、彼のデザインは文字通り「異次元の衝撃」でした。わび・さびといった静かな日本美術のイメージを覆す、極彩色で派手、そしてエネルギッシュな傾奇者(かぶきもの)の美学である「BASARA」。そして、歌舞伎の引き抜き(一瞬で衣装を変える技法)や、伝統的な「凧絵」をあしらった前衛的なドレスは、ロンドンの若者やアーティストを熱狂させました。
当時、新しい表現を模索していたデヴィッド・ボウイもこのコレクションに衝撃を受けた一人であり、後に伝説となる「ジギー・スターダスト」の衣装依頼へと繋がっていったのです。
実は、この1971年のデビューショーで発表された「凧絵のドレス」は、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A本館)に歴史的コレクションとして所蔵されています。自身の原点とも言える作品を所蔵する「V&A」の名を冠したスコットランドの新美術館は、彼にとって特別な意味を持っていたに違いありません。
■ なぜ寛斎さんは「キルト」に惹かれたのか
青山のカフェで、キルト姿の僕にわざわざ声をかけてくれた寛斎さん。その出来事や、その後に知ったスコットランドとの関わりを重ね合わせると、僕は寛斎さんがキルトという民族衣装にも強い関心を抱いていたのではないかと感じています。彼のファッション哲学を振り返ってみても、そこには必然的な繋がりがあるように思えます。それには3つの理由が考えられます。
1. 究極の「ジェンダーレス」への共鳴
デヴィッド・ボウイの衣装に代表されるように、寛斎さんは男女の境界を軽々と飛び越えるジェンダーレスなデザインの先駆者でした。男性が堂々と身に纏う「スカート状の伝統衣装」であるキルトは、「男性・女性はこうあるべき」という固定観念を打ち破る彼のアプローチと、僕には、とても親和性の高い存在だったように思えます。
2. 伝統とアイデンティティへのリスペクト
彼が掲げた「BASARA」は、歌舞伎や浮世絵など、日本の力強い伝統美を現代のエネルギーへと昇華させるものでした。一方のキルトやタータンチェックも、単なるファッションではなく、スコットランドの氏族(クラン)の誇りと歴史を象徴する力強い伝統文化です。自国の伝統からエネルギーを引き出してきた彼にとって、キルトに込められた「民族の誇り」は深く共鳴する対象でした。
3. イギリスの熱狂的なカルチャーとの接点
1970年代のイギリス音楽・ファッションシーンにおいて、キルトやタータンチェックは新しい表現のシンボル(グラムロックやパンクなど)として大々的に取り入れられました。自身の原点であり、現地のカルチャーの熱量を肌で知っていた彼にとって、キルトは「イギリス圏のエネルギーの象徴」でもあったはずです。
■ 未完の夢と、最後に遺した熱量
亡くなる前年の2019年、V&Aダンディーを訪れ「ここでショーをやりたい!」と熱望した際、僕は、彼の頭の中には、スコットランドの誇りであるキルトと自身の「BASARA」が融合した新しいショーの構想があったのではないかと想像しています。彼がキルトを「寛斎流」にどう再解釈し世界へ発信してくれたのか、想像するだけで非常に魅力的な未完のプロジェクトです。
その夢はスコットランドの地では叶いませんでしたが、彼のエネルギーは最後まで燃え尽きることはありませんでした。
生前、彼が病床から亡くなる直前まで総指揮を執っていたのが「日本元気プロジェクト2020 スーパーエネルギー!!」です。これはファッションショーの枠を超え、音楽やパフォーマンスを巻き込んで「人々に元氣を届ける」という彼独自のエンターテインメントでした。
2020年7月21日、寛斎さんは76歳で息を引き取りました。しかし、そのわずか10日後(7月31日)にイベントは予定通りオンラインで配信されました。娘の山本未來さんをはじめ、親交の深かった市川右團次さんや夏木マリさんが、彼を象徴する過去の衣装を纏ってパフォーマンスを行い、未来の若手デザイナーの作品も発表されるなど、彼の「もっと行け!」という遺志がそのまま形になった熱狂的なイベントとなりました。
僕には、彼がV&Aダンディーで目指していたものも、まさにこうした国境や世代を超えた「熱量の爆発」だったように思えてなりません。
■ 人生の原点と、人生の追い風
振り返ってみると、10代の頃にアメリカでマクラディ家と交わした約束が僕の「キルト人生の原点」だとするならば、あの日、青山のカフェで寛斎さんから頂いた言葉は、僕の「キルト人生の力強い追い風」です。
「大変かと思うけどキルト着続けてよ、頑張ってね」
最期まで自らの表現を貫き、人々にエネルギーを与え続けた山本寛斎さんからのこの言葉は、生涯忘れることのない大切な宝物です。
僕はこれからも、彼が遺してくれたこの熱量と追い風を背に受けながら、自分らしくキルトを履き続けていこうと思います。
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